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「お前が言うか?」論法は袋小路

今回は医学教育の話です。医学教育に興味があろうがなかろうが学年が上がり教育病院に勤務していると必然的に何らかの形で教育に関与することになります。ここで教育する側の人が最初にぶつかる壁が「いやっ・・そういう自分もあんまりちゃんと出来ていないんだけど・・・自分が教えて説得力があるかな・・・?」という躊躇い(ためらい)かと思います。自分も研修医2年目になったときに教えながら「うーん・・・とは言ったものの、自分が本当にちゃんと出来ているか?と言われるとどうなんだろう・・・?」「自分が言っても説得力があるかな・・・」と悩んだものです。この点に関して自分なりの考えを書きたいと思います。

まず少し一般的な話から入ります。他人から何か指摘を受けて「お前だって出来ていないじゃないか」と反論することを海外では“whataboutism”と言います(思想家の内田樹さんは「どの口が言うか」と表現されており、「お前が言うか?」とも言い換えられます)。この論法はただ論点をずらしているだけであり、論理学の世界では「誤謬(ごびゅう)」になります。つまり「自分に非があるかどうか?」は一旦棚に上げて「他者に非がある」という点にフォーカスを当て論点を逸らしているに過ぎないからです。

この論法を医学教育の領域で突き詰めていくと、お前が言うか?と誰からも言われない万能な知識を持った臨床医にしか教える権利がなくなるといった事態が起こります。本来の目的はよりよい医学教育を展開することであるはずが、結果教育が制限されてしまう息苦しい窮屈な状況を生み出してしまうわけです。

ではそもそも私たちはなぜこの論法を採用してしまうのでしょうか?個人的には(これは日本人の特性なのかどうかはわかりませんが)指摘された事実内容よりも、「人」にフォーカスを当ててしまう傾向が私たちに根付いていることが原因なのではないかと思います(良いか悪いかは置いておいて)。つまり何かを指摘された後に「そっかー確かに〇〇だな」「いやっそういわれたけど本当に〇〇なのか?」と事実と照らし合わせるのではなく、「△△にこんなこと言われた」と「人」の議論になってしまうのです(飲み会での「愚直」もほとんど後者に関するものですよね)。これは逆に実はどんなに事実内容が間違っていても「〇〇さんが言ったことだから正しいだろう」という認識が多くされていることも関係していると感じます。つまり指摘された内容に毎回向き合うことは「しんどい」けれど、「人」にフォーカスを当てると判断が単純化でき、考える手間が省けて「ラク」であるということです。

教えていると心の奥でつい「いやーでもそれお前が言うか?って思われていないかなー・・・」と感じることがあると思いますが、「お前が言うか?」論法は袋小路になっておりどこへも行くことが出来ないという上記の議論を踏まえた上でいったん「人」へのフォーカスを外して、simpleな話ですが「純粋にみんなにとって役立つ知識・事実を伝える」という点に集中することが結果最も教育的なのではないかと個人的には思います。

後期研修医1年目などでは特に「自分はまだそもそも”learner(学ぶ立場)”だから人に教える立場にないかな」と考え、教えることに躊躇い(ためらい)を感じてしまう方も多いかもしれませんが、learnerが教えてはいけないことは何もありません。私としては上記の議論を踏まえてぜひ積極的に教えることを進めてほしいなと思います。偉そうかどうかとか態度が大きいとかの余計な感情は一旦置いておいて、まずはこの様に間口を広げることで教育の風通しを良くすることが良い医学教育への第一歩なのではないかと思います。