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「正しさ」について

最近色々なことに対してもやもやとした思いが頭の中を渦巻いているため自分の考えを整理するためにこの記事を書いています。医学と全く関係ないことで申し訳ございません。近年SNSの普及によって誰でも公平に情報に対してアクセスできるようになった反面、問題点として炎上商法、ヘイトスピーチ、新型コロナウイルスに対する誤情報の拡散、不安を煽るメディアなども浮き彫りになってきました。

以下 「ゲンロン戦記」「知の観客」をつくる (中公新書ラクレ) 著:東浩紀 より引用

”とりわけ問題なのは、SNSが普及するとともに、言論においても文化においてもまた政治においても、しっかりとした主張のうえで地道に読者や支持者を増やしていくよりも、いまこの瞬間に耳目を集める話題を打ち出して、有名人やスポーツ選手を使って「炎上させる」ほうが賢く有効だという風潮になっていったことです。そのような戦略は、短期的・局所的には有効かもしれませんが、長期的・全体的には確実に文化を貧しくしていきます。いま日本ではリベラル知識人と野党の影響力は地に 堕ちていますが、その背景には、2010年代のあいだ、「その場かぎり」の政権批判を繰り返してきたことがあると思います。” ここまで引用

以下 「みみずくは黄昏に飛びたつ」-川上未映子訊く/村上春樹語る- 新潮社 より引用

”「善き物語」「重層的な物語」よりは「悪しき物語」「単純な物語」の方が、人々の本音により強く訴えかけることは間違いないと思います。” ・・・・中略・・・・

善なるものというのは多くの場合、理解したりかみ砕いたりするのに時間がかかるし、面倒で退屈な場合が多いんです。でも、「悪しき物語」というのはおおむね単純化されているし、人の心の表面的な層に直接的に訴えかけてきます。ロジックがはしょられているから、話が早くて、受け入れやすい。だから、汚い言葉を使ったヘイトスピーチのほうが、筋の通った立派なスピーチより素早く耳に入ってきます。” ここまで引用

これらの問題の根本は何処にあるのでしょうか?私はこれらの原因は「正しさ」を他人に求めていることにあると思います。

ここから先は決して他責的な話ではなく私自信の話でもあります。結局のところ私たちは過度に不安なのかもしれません。自分の中で「正しさ」について考えられず(もしくは自分の提供する「正しさ」に対して自信がなく)、他人が提供する「正しさ」にただ乗っかることで不安を解消する作業をただ延々と繰り返しているだけのように思います。あいつを叩いていれば自分は正しい側にいてきっと大丈夫だろう、これに「いいね」をすれば自分も正しい価値観を共有していることになるだろうなど「自分」ではなく「他人」を基準とした価値判断があまりにも深く無意識に刷り込まれてしまったがために、他人が提供する「正しさ」に対して何も疑問や自分の考えというものを持たなくなってしまったのかもしれません

ただこの他人の提供する「正しさ」に乗っかるという作業を無意識に繰り返し続けることは危険であることを歴史はすでに私たちに教えてくれています。

以下 「アンダーグラウンド」 著:村上春樹 講談社 より引用(以下の「あの衝撃的な事件」はオウム真理教の地下鉄サリン事件のことを指しています。)

”人々は多かれ少なかれ「正義」「正気」「健常」という大きな乗合馬車に乗り込んだ。
それらは決してむずかしいことではなかった。
そこでは相対性と絶対性が限りなく近接していたからだ。
「正気」の「こちら側」の私たちは、大きな乗合馬車に揺られていったいどのような場所にたどり着いたのだろう?
私たちはあの衝撃的な事件からどのようなことを学び取り、どのような教訓を得たのだろう?
ひとつだけたしかなことがある。ちょっと不思議な「居心地の悪さ、後味の悪さ」があとにのこったということだ。
私たちは首をひねる。それはいったいどこからやってきたのだろう、と。”
 ここまで引用

結局他人が提供する「正しさ」という乗合馬車に乗り込んで私たちは「ふーこれで安心だ」と不安を解消しているのかもしれませんが、その乗合馬車が私たちをどこに連れて行ってくれるのか?を私たちは知りません。知らず知らずのうちに馬車が道行く人を轢いて傷つけてしまっているかもしれませんし、馬車が加速しすぎてもう止まることが出来ないくらい暴走してしまっているかもしれません。

そして現代はこの乗合馬車にSNSというチケットを通じて私たちはいとも簡単に誰でも乗り込むことが出来ます。この手軽さが極めて危険だと個人的には感じています。

以下 「「ことば」に殺される前に」 著:高橋源一郎 河出新書 より引用 

”なぜ、あのとき、わたしは彼らの誘いに乗らなかったのだろう。
 この社会にはおかしなところがあった。彼らは、「正しい」(と彼らが考える) 理論で、わたしにそれを説明した。確かに、彼らの主張は「正しい」ように見えた。だが、その「正しさ」は、わたしには少々息苦しかった。社会も、その社会を否定する彼らも、どちらも、わたしが大切にしたい「自分の考え」を気にしてはくれないように思えた。
 頼りなく、弱々しいかもしれないが、わたしは「自分の考え」で判断したかったのだ。仮に、その判断が間違っていたとしても。”
  ・・・・中略・・・・

”戦前は、天皇に忠誠を誓うのが「正しい」ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが「正しい」とされた。きっと、いまも、なにか「正しい」ことがあって、それに、みんな従うのだろう。
 「正しい」ことは時代によって異なるが、弱々しい「自分の考え」より、みんなが支持する「正しい」考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分を絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。” ここまで引用

現代はSNSの普及によりあまりにも簡単にアクセスができるため、自分が他人から提供された「正しさ」にただ乗っかっているに過ぎないという事実にすら気が付いていないことが多いのではないか?と思います。まずこの点に対して自覚的になり、たとえ弱々しいものであったとしても「自分の考え」で「何が正しいのか?」を判断するプロセスを大切にしていきたいです。暴走するかもしれないし行き先のわからない乗合馬車に乗り込む前に、歩く方が遅いし疲れるかもしれないけれどまず自分の足で道を歩きはじめることから取り組んでいきたいと思います。