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赤の女王仮説 Red Queen Hypothesis

唐突ですが皆様「赤の女王仮説」をご存じでしょうか?(上図はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E4%BB%AE%E8%AA%ACより引用)ルイスキャロルの有名な小説「鏡の国のアリス」に出てくる赤の女王が発する言葉で「その場にとどまり続けるためには走り続けないといけない」 “It takes all the running you can do, to keep in the same place.”という台詞があります。この言葉を拡大解釈して遺伝や進化において私たちは常に進化しつづけないと退化してしまうという意味に利用されることがあります。

私はずっとこの仮説を医療現場でも演繹出来ると考えていました。良い医療を提供するためには常に走り続けていないといけない。立ち止まったら自分の知識は風化して遅れをとってしまう。そう信じて少しでも速く走ることが出来るように努力しなければとはっぱをかけてきたつもりでした。

ただここで1つ疑問が生じます。では体力が無尽蔵にあって走り続けることができる人だけが一流の臨床医になっていき、走り続けることが出来ない私(たち)は競争に置いていかれて退化していくしかないのでしょうか?確かに臨床現場にいると超一流の臨床医の多くはこのような無尽蔵な体力を持ち合わせている場合があり(平均睡眠時間3時間とか信じられない・・・)、その差に愕然とすることがあります。ちょうどこの疑問を先日ER当直中に初期研修医のI先生, T先生と一緒に患者さんが夜中途切れた3時ごろ救急外来で議論していたところでした。私はずっとこの無情な「赤の女王仮説」に対して有用な回答を自分の中で提示することが出来ずにいました。そんな中先日たまたま本棚の本を読んでいたら同じく「走る」ということを題材に次のような文章が目に留まりました。

“走ることは僕にとっては有益なエクササイズであると同時に、有効なメタファーでもあった。僕は日々走りながら、あるいはレースを積み重ねながら、達成規準のバーを少しずつ高く上げ、それをクリアすることによって、自分を高めていった。少なくとも高めようと志し、そのために日々努めていた。僕はもちろんたいしたランナーではない。走り手としてはきわめて平凡な-むしろ凡庸というべきだろう-レベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。” 引用元:走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫) 著:村上春樹

今までの自分自身を振り返ってみると最先端の医学知識に追いつくために、鏡の国で右も左も分からず「赤の女王によってただ走らされている」という感覚をどうしても拭うことが出来ませんでした。強迫的に論文やガイドラインを読む背景には常に走ることを急かしてくる赤の女王の不機嫌な第三者の気配がありました(彼女は作中と同様いつも怒っている)。そこでは主体性は遠くに追いやられ、まわりから置いてきぼりにならないためのスピードと競争原理が求められます。ただこの原理に従ってひたすら急かされているとどうしても息苦しさ、窮屈さが重なり疲労がたまってきます。

「赤の女王仮説」はそれ自体は正しいのかもしれません。ただここで重要なことは走るスピードやペースはあくまで自分が決めるのであって赤の女王の顔色を伺う必要は無いという事です。走りだすことを決めたのは自分自身であり、赤の女王ではありません。走るスピードは遅くても良いのです。周りに置いていかれても良いのです。そんな事はあまり重要ではない。自分で超えていくべき目標を決めて乗り越えていくプロセスを通じて、はじめて自分を信じて前へ走り出すことができるのだと思います。そこで赤の女王に登場してもらいわざわざ尻を叩いてもらう必要はないのです。こう考えると少し息苦しさから解放されて前を向いてまた走り出すことが出来る気がします。

P.S  I先生、T先生この間は当直で迷惑かけてごめんね。色々ゆっくりと考え直すきっかけをくれてありがとう!