
村上春樹さんの新作が新潮2025年5月号に掲載されました。タイトルは「武蔵境のありくい」です。私(管理人)は昔研修病院が近くにある関係で武蔵境に3年くらい住んでいたのでとても馴染みがある地名で、タイトルを知ったときは「まさかあの武蔵境が舞台に!」とかなり驚きました。武蔵境は中央線で三鷹の隣の駅で、駅前に大きなイトーヨーカドーもあるし、カフェやパン屋も色々あって、落ち着いており住みやすい土地でした。
前に村上春樹さんと川上未映子さんが朗読会を開催されたのですが(その時の様子はこちらのブログに書いています)、そこで新作の「夏帆」が朗読されました(こちらもその後の新潮で発表されていますこちら)。この「夏帆」の主人公であるイラストレーター、絵本作家の夏帆が今作でも主人公になっています。ただ前作の「夏帆」を読んでいなくとも、ストーリー構成上全く問題ありません。
今作はタイトルが中身そのままという感じですが、とあるきっかけで夏帆が武蔵境に住むことになり、そこでありくいと遭遇し、日常の中に潜む不思議な世界に引きずり込まれていく展開です。原稿用紙130枚、ページでは20ページくらいの短いお話です。
以下私の感想です(これから読むことを楽しみにしている方は読まない方がよいかもしれないです)。
まず読み終わって「かえるくん東京を救う」に似ているなと思いました。かえるくんと同じように「ありくい」も、自分以外の人には物理的に見えず(片桐さんまたは夏帆にしか見えない)、丁寧な言葉遣いで礼節が保たれているにも関わらず、かなり大胆で突飛なお願いを登場人物にします。そして夏帆も片桐さんも、こうした不思議な出来事に巻き込まれたことを回りの誰にも相談せずに1人で抱えて投げ出さずに「真面目に」取り組んでいきます。最後の終わり方も少し似ている気がします。
ただどうしても「かえるくん東京を救う」は強烈な作品なので、今回の作品はかえるくんと比べると少しおとなしいなという感じます。「かえるくん東京を救う」はストーリー展開もスリリングで純粋にサスペンス的な楽しみ方もできるので、ファンが多い作品だと思うのですが、今回の作品はそれよりかなりstaticで落ち着いた雰囲気です。ここ最近の村上春樹さんの作品は全体的にかなり落ち着いた内容が多いですね。まだ「かえるくん東京を救う」を読んだことがない方は本作を読んだ後に是非よんでみていただきたいです。
私が本分中で印象に残ったのは以下の言葉です。
また責務だ、と夏帆は思う。どうしてそれが私の責務になるの?
「なぜならばこれはあなたが始めたことだからですよ」とありくいの夫は言った。「始めたことは終わらせなくてはなりません」
私が始めた?いったい何の話をしているの?
p.44
この「そもそもの始まりはあなただ」という意味の言葉は村上春樹作品のあちこちででてきます。理不尽な出来事に巻き込まれて、一体なぜ自分はこんな事をさせられてるのか?と不条理に感じるところで「そもそもの始まりはあなただ」と第三者からきっぱりと告げられます。このテーマに関して「海辺のカフカ」の冒頭で象徴的なシーンがあります。
ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係ななにかじゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏みいれ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、あるばあいにはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ。
・・・中略・・・
そしてもちろん、君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上的で象徴的な砂嵐を。でも形而上的であり象徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。温かくて赤い血だ。君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、ほかの人たちの血でもある。
そしてその砂嵐が終わったとき、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いやほんとうにそいつが去ってしまったのかどうかもたしかじゃないはずだ。でもひとつだけはっきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。
村上春樹「海辺のカフカ」より
夏帆は無意識か、意識してかわからないですが、この一見な理不尽な砂嵐に対して自らきちんと立ち向かいくぐり抜けます。そして朝目が覚めたときに(砂嵐をくぐりぬけた後)、世の中は何事もなかったかのように時が流れているけれど、自分自身にはっきりとした変化が生じていることを感じます。
理不尽な砂嵐の前に「そんなことは私とは関係ない」といって砂嵐を完全に避けて立ち去ることもできるはずです。でも夏帆はそうしません。ありくいからの「そもそもの始まりはあなただ」という指摘も、意味不明だと怒って反発すればいいはずです。ただ夏帆はそうしない。
おそらく夏帆はどこか自分自身の欠落感のようなものを感じていて、それが今回の出来事に投影されているのではないか?という想いが心の奥底に潜んでいると思います。その深い闇の部分を「ありくい」がライトで照らしているのかもしれません。そしてその深い闇に触れる入り口が「とぎや」の店主に思います。日常生活レベルではこうしたことを意識せずとも、そつなくこなしていくことができるので(ここは夏帆の学生時代の話とつながるかと思います)、その深い闇の部分にスポットライトが当たることはないかもしれませんが、そこに光をあててくれる存在の象徴が「ありくい」であり、そういう意味で「ありくい」の登場は必然だったのかもしれません。