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精神的に安定するにはどうすればよいのか?

  • 2024年12月31日
  • 2025年1月4日
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年末に不思議な話題ですが、「いつ私たちは精神的に不安定になるのか?」についてこれまで私なりに色々考えてきたことや、読んだ本を紹介します。ここでは食事の乱れや運動不足、睡眠不足、過労といった日常生活での不摂生やトラブルは当たり前なので一旦除きます。以下で大きく3点挙げたいと思います。

価値観の硬直化による選択肢の消失

精神を病むということは、価値観が硬直化して色々な選択肢がぼろぼろと消失し「これ以外はありえない」、「自分にはこれしか無いんだ」と1つの選択肢に追い込まれることだと思います。他の人がいくら「そんなことないよ」と指摘しても、本人は「もうこれしかありえない」と聞く耳をもたず理性的な判断ができない状況です。

私たちの価値観は無意識のうちに日々浸食を受けています。その原因は広告であったり(特に消費に関して)、世間一般で常識とされるものであったり、職場の文化(医療ではここが特に問題になりやすい)であったりします。このように放置しているといつの間にか固まってしまう価値観を解きほぐして目を覚ましてくれるものの1つが、小説や詩をはじめとした言葉であったり、美術や音楽といった芸術なのではないかと思います。それは単に「あー綺麗だなー」と目や耳の保養として受動的に消費するものではありません。

言葉や絵、音楽を介して、肩越しからその人の世界の見え方を追体験することで、物事にはいろいろな見え方があるという柔軟さを学ぶことができます。このように作者側の視点に立って物事を捉え直すと新しい発見が沢山あります。

特に作者の年齢が自分と近い場合、「自分と同じ年月を生きてきてこんなに世界の見え方が違うんだ」と驚くことが多いです。詩人の最果タヒさんは私と年齢が近いですが、正直こんな世界の見え方があるんだと驚かされるばかりです。子供のころに国語の授業で詩を読みました(読まされました)が正直「よくわからないな。なんでこんなこと学ぶのかな?」と思っていました。大人になって言葉の切り口に関心が向くようになると非常に面白く感じます。

きみに会わなくても、どこかにいるのだから、それでいい。
みんながそれで、安心してしまう。
水のように、春のように、きみの瞳がどこかにいる。
会わなくても、どこかで、
息をしている、希望や愛や、心臓をならしている、
死ななくて、眠り、ときに起きて、表情を作る、
テレビをみて、じっと、座ったり立ったりしている、
きみが泣いているのか、絶望か、そんなことは関係がない、
きみがどこかにいる、
心臓をならしている、
どれだけで、みんな、元気そうだと安心をする。
お元気ですか、生きていますか。
きみの孤独を、かたどるやさしさ
彫刻刀の詩
最果タヒ「夜空はいつでも最高密度の青色だ」より

また私は大人になってから読書の捉え方がかなり変わりました。昔は小説を読んでいても物語のプロットやキャラクターばかりに気を取られていましたが、最近は本を読んでいても言い回しや描写の妙が気になるようになりました。例えばスコット・フィッツジェラルドの「グレートギャツビー」は最初読んだときは「一旦この本の何がいいんだ?ただの金持ちの色恋ドタバタ劇じゃないか」と思っていましたが、大人になって読み直すと描写の美しさや繊細さは確かに素晴らしく、なるほど若きフィッツジェラルドはこのように世界を見ていたのだなと彼の肩越しから楽しむことができるようになりました。ちなみに余談ですが、レオナルド・ディカプリオがギャツビーを演じる「グレートギャツビー」は豪華絢爛なパーティーや葛藤を圧倒的な美しさで表現した素晴らしい映画ですので原作を読んだことがない方も是非一度ご覧になっていただきたいです。

さて少し話が脱線しましたが、このように自分とは違う世界の切り取り方や見え方に触れる体験は自分の世界の見え方や解像度を一段階上げてくれます。こうした多様な視座を持つこと、つまり「物事には色々な見え方がある」というバランスの良さ・柔軟性を身に付けることは精神を安定させる上で防衛ラインになるというのが私の考えです。

またもちろんこうした作品を感じることも有用ですが、1番効果があるのは自らクリエイティブな活動をすることです。能動的に文章を書く、絵を描く、演奏するなどがもっとも効果があります。最近は文章であればnoteであったり誰もが手間をかけずに発信がしやすい環境にあります。書くことで世界の解像度は各段に変化していきます。

ぼくたちはたくさんのものを見て、聞いて、感じている。けれどそのほとんどは、意識のなかからすり抜けていく。そういう『すり抜けていく感情』をキャッチする網が、ことばなんだ
古賀史健「さみしい夜にはペンを持て」より

言葉が思考を規定します。そして言葉は星のように無数に存在しています。しかし、私たちが普段使っている言葉は自分が思っている以上に限られたパターンを繰り返しているだけです。ここに気が付くためには自分が普段から使っている言葉に意識的になる必要があります。そのためには話しているだけではどうしても言葉が流れてしまうので、「書く」ことで白日の下に言葉を照らし、自分の表現と向き合うことが重要です。

*ちなみに全然関係ないのですが、私は最近「おじさんとは何か?」についてよく考えるのですが(自分がおじさん年齢に差し掛かっているため)、この言葉の乏しさ・パターン化が「おじさん化」につながる重要な要素だと思っています。

また人間関係という観点からは組織が閉鎖的で、常日頃接するする人が変化なく固定化されると価値観もみるみる固まってしまいます。過去にこちらの記事で閉鎖的な組織の欠陥についてまとめました。このために澱みを生理的に感知し避け、常に風通しの良さを意識することが重要です。

「今ここの自分」に対するリアリティの喪失

精神的安定の上で最も重要なのは「今ここの自分に集中する」ことです。

私の意見としてはこの集中を逸らす代表的な装置がSNSです。例えばSNSで他人のキラキラ豪華絢爛な生活を眺めていると、薄給で泥臭く働いている自分が馬鹿らしく感じられることがあります。そうした豪華絢爛な世界の方にリアリティを感じると、「今の自分が非リアルで間違っているんだ」という他人と自分の比較により生じる不全感がつのります。こうした「今ここの自分へのリアリティの喪失」は確実に人の精神を蝕みます。

SNSの登場によって「今ここの自分」に集中することの難しさは増大する一方です。SNSを情報収集のためのツールと割り切って上手に使うことができる人もいるでしょうが、雑多な情報の渦に飲み込まれてしまい思い通りに操ることができないことも多々あると思います。

そうした中で「今ここの自分」に集中するための対策として、近年はメディテーション(瞑想)マインドフルネスに注目が集まっていますし、の考え方にも通じるところがあるかと思います。色々なやり方があるのかもしれませんが、結局は「今ここの自分」に集中することが目的であることは共通しているかと思います。こうした精神衛生状態を保つための対抗策が生まれてきたことは必然の結果だと思います。

またミニマリストもここ10年くらいで話題になってきました。ミニマリズム(minimalism)では物減らすことはあくまでも手段であり、目的は物を取捨選択する過程で自分の価値観や優先順位を改めて意識的に考え直すことです。何を物を捨てて、何を残すかを考えるということは必然的に自分の価値観を洗い直します。minimalismに関してはこちらの本が簡潔に短くわかりやすく書かれておりおすすめです。

いくつかのルールや制約の中で生きたほうが、人は生きやすい

その一つひとつの物に対して執着が生まれると、心を乱す原因が増えます。 それなら、はじめから物がないほうが楽だし、心も乱れません。

所有とは執着である

持っているものの数を減らそうというとき、自分なりの基準を決めることが大事です。 おすすめの基準は、本当に「今」必要かどうか です。   あくまでも、「将来」ではなく、「今」を優先することが大事です。

人と比較するのではなく、自分の持てる力を最大限に生かすことに集中したほうがいい のです。劣等感や嫉妬といった感情を持たないためには、まずは自分と他人を比較しないこと。

誰もが、自立して自分の人生を生きるべきです。 そしてその人生は、一人では成り立ち得ないのです。 変えられるのは、他人ではなく自分だけ よけいな人間関係を持たないのと同じくらい大事なのが、 他人ではなく自分を変える ということ

みなさんには、「幸せは自分の中にある」 ということに気づいていただきたいと思います。
「持たない生き方」より

またそもそも「SNSをやらない」という方法もあります。私はTwitterやInstagramなどのSNSは意図的にやっていません。私の精神力ではすぐに雑多な情報におどらされて精神的に不安定になるからです。「スマホ依存」という言葉も話題になっていますが、こうした背景を反映していると思います。精神的不調から身を守るための重要な3要素として以下「スマホ脳」では①睡眠、②運動、③他者との関わりを挙げています。

そして、そもそも人間は幸せになるように進化していない(生存して子孫を残すことが目的)前提を理解することが重要と述べています。遺伝子でうつが除かれなかったは、進化の過程で生存において役割を果たしていた、つまり生存における闘争逃走を優先させる警報の役割を担っていた訳ですが、それが現代社会においては不都合に働く場合があるということです。

社交生活の代わりにSNSを利用する人たちは、精神状態を悪くする。
自己評価が低く自信がない人は、SNSのせいで精神状態が悪くなるリスクを抱えている。自分を他人と比較しがちだからだ。基本的には誰だって周りと比べて自身が持てなくなったり不安になったりはする。
アンデシュ・ハンセン「スマホ脳」より

このように「今ここの自分」にどこまで集中できるか?は有象無象の情報が渦巻く現代における重大なテーマだと思います。このテーマに関して私は岡本太郎の力強い言葉が好きです。

人間がいちばん辛い思いをしているのは、”現在”なんだ。やらなければならない、ベストをつくさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために”いずれ”とか”懐古趣味”になるんだ。
懐古趣味というのは現実逃避だ。だから、過去だってそのときは辛くって逃避してたんだろうけど、現在が終わって過去になってしまうと安心だから、懐かしくなるんだ。
だから、そんなものにこだわっていないで、もっと現実を直視し、絶対感をもって問題にぶつかって、たくましく生きるようにしていかなければいけない。
岡本太郎「自分の中に毒を持て」より

「自分の価値観や世界の見え方は年月と共に変化する」という視座の欠落

私はコスパ・タイパという言葉が嫌いです。コスパ・タイパという言葉の最大の弱点は、年単位の長い時間をかけることで得られるものごとに関しては見通しが立ちづらいので「コスパが良いとは断言できない」→「リスクがあるからやらない」と安易に片付けてしまいがちな点です。つまりコスパ・タイパ思考は根本が「短時間で何かをやるときにコスト・ベネフィットのバランスが良いか?」という変数が少ない近視眼的な物事の捉え方であり、遠く先の物事は変数が多すぎて輪郭がぼやけておりよくわからないのでコスパ・タイパという概念と相性が悪いのです。

この点医学(臨床)は習熟に時間がかかり、タイパ・コスパという概念とは相性が悪いです。確かに医学の卒前・卒後学習において非効率が点が多々あることは事実ですが、例えそこが劇的に改善されたとしても習熟するのに年単位の長い時間がかかることには変わりはありません。臨床医としてある程度自立するためには、例えば私が専門としているNeurologyは最低でも8年間くらいは臨床に「しっかりと」(適当にではない)従事する必要があると思います。おそらく外科領域ではもっと長い年月が必要なことと思います。ここがタイパ・コスパという観点からは長すぎて「待てない」のかもしれません。

もちろんただ長すぎるという時間の問題だけではなく、私を含めた医師が長い年月をかけて頑張ったあげくに「臨床を楽しんでおらず」、「忙殺されている」様子を若い先生が目の当たりにしていることもコスパの悪さにつながっているのかもしれません。私自身医学部の学生時代は大学病院の臨床実習で「先生たちみんな辛そうだなー、、、楽しくなさそうだな」という感想を持ちました。保険診療の限界や激務と責任に見合わない報酬など、確かに現在は逆風が強く魅力的に映らない点が多いのかもしれません。

そうすると、そもそもタイパやコスパが良いかわからないし、長い年月かけて上の医師が良い生活をしているわけでもなさそうだから、「長期間時間をかけて得るほどの価値がない」とバッサリ切り捨てられてしまっているのかもしれません。確かに近視眼的にリーズナブルな選択肢を選べば、最近話題の「直美」(ちょくび)に行き着くのは自然な流れなのかもしれません。

ただここでタイパ、コスパ思考にはもう一つ重大な問題点があります。それは「自分自身の価値観や世界の見え方は年月と共に変化する」という視座が欠落しているという点です。以下に村上春樹の「海辺のカフカ」から一節を紹介します。

“そしてもちろん、君はじっさいにそいつをくぐり抜けることになる。そのはげしい砂嵐を。形而上的で象徴的な砂嵐を。でも形而上的であり象徴的でありながら、同時にそいつは千の剃刀のようにするどく生身を切り裂くんだ。何人もの人たちがそこで血を流し、君自身もまた血を流すだろう。温かくて赤い血だ。君は両手にその血を受けるだろう。それは君の血であり、ほかの人たちの血でもある。
そしてその砂嵐が終わったとき、どうやって自分がそいつをくぐり抜けて生きのびることができたのか、君にはよく理解できないはずだ。いやほんとうにそいつが去ってしまったのかどうかもたしかじゃないはずだ。でもひとつだけはっきりしていることがある。その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないっていうことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。”
村上春樹「海辺のカフカ」 より

私たちは色々な経験を経て、それを通り抜けると前の自分とは異なった新しいものの見方を身につけた自分に変化していることに気付きます。むしろ経験を通じてこうした自分自身の変化が全くなければ人としての成長していないということです。これは残念ながら事前には全く予想することができず、あくまでも事後的(retrospective)に語られるものです。特に初期研修~専攻医といった医師になってからの7年間くらはこうした自分の中での変化が目まぐるしく生じます。

私自身初期研修の前後で医療や人との接し方に関する考え方は劇的に変わりましたし、ここ数年は勤務先の病院や役職が変化した訳ではないですが、責任や教育について、また生活についての考え方などもかなり変わりました。

タイパ・コスパを長期的な話に持ち込むときはこの自分が時間をかけて変化(メタモルフォーゼ)する可能性に対する想像力が往々にして甘くなります。すると多くの場合、自分が変化しないことを前提として議論が進みますが、それは「私がこの先成長しないことを前提としています」と高らかに宣言しているようなものです。長期的に当初は予想もしなかった視点や知恵を身に付けることができるかもしれませんが、繰り替えしですがこれは事後的にわかることで事前に予想はできないところが大きく、実際にやってみないことにはわかりません。コスパ・タイパという軸ではどうしてもここは評価できないのです。こうした二次元的な人生設計は往々にして人を苦しめると思います。

この変数を強引に固定化すると、確かに計算式は立てやすくなり楽なのかもしれません。しかし、それは自分が成長しないことに呪いをかけているように感じます。「私はきっと成長する」と純粋に期待し・信じることをもっと大切にして良いのではないかと私は思います。

では何を基準に将来のことを決めればよいのか?ですが、何となくこれは面白そうだぞという直感に従うしかないと思います。ワクワクすることを選ばずに下手に計算高いと将来後悔する可能性が高いです。そもそもその計算自体も先ほど述べた通り変数を強引に定数にしているだけなので「上手く計算して頭がよさそうな雰囲気をかもしだしているけれど、結局は計算している気になっているだけ」です。何年目に大学院に行って博士号を取得して、何年目で結婚して、何年目で関連病院へ出向して、何年目に関連病院の部長になって、といった固定化された最大公約数的な医師人生は本当に幸せなのか?考え直したいです。

人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変卑しい根性だと思う。繰り返して言う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一見世間体もよく、うまくはいくかもしれないが、ほんとう生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。
岡本太郎「自分の中に毒を持て」より

そんなこんなでここ最近色々考えていたことを思考の整理もかねてまとめてみました。