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「書くことについて」著:スティーブン・キング 訳:田村義進

  • 2024年11月28日
  • 2024年11月29日
  • 神経

スティーブン・キングStephen Kingは現代最も有名なホラー小説家で、映画化されている作品も多く、「グリーンマイル」や「シャイニング」など観たことがある方も多いかと思います。

私はホラーは苦手なジャンルなのですが、スティーブンキングの作品は例外的に好きです。おそらくグロテスクな描写が少なく、表現される内容が「場の恐怖」、「静の恐怖」だからかもしれないです。そんなこんなでスティーブンキングの文章術の本があることを知り、読んでみようと思った経緯です。

この本の表紙の写真からは「スティーブンキングって気難しくて無口な大きなおじさんなのかな」と勝手に想像していましたが、本書を読むと「めっちゃおしゃべりなユーモアと皮肉たっぷりおもしろおじさん」であることがわかります。全体を通じてユーモアとジョーク、として強烈な皮肉に溢れています(皮肉は相当強烈です)。

この本は①スティーブンキング自身の自叙伝②小説を書くことを念頭に置いたスティーブンキングの文章術によって構成されています。特に②の文章術では実際に他の作家が書いた作品の一部を引用して、「この文章のここがなぜダメなのか?」をスティーブンキングが検証する品評会もあり、こんなことして色々な人から怒られないのか・・・?と思いますが、非常に勉強になります。

以下に個人的に印象に残った文章を紹介していきます。

ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でもいいし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであったもいい。拳を固め、目を細め、誰かをこてんぱんにやっつけるためでもいい。結婚したいからでもいいし、世界を変えたいからでもいい。動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。
恭順を求めているわけではないし、疑問を抱くなと言っているわけでもない。偏見をなくせとも言っていないし、ユーモアのセンスを捨て去れとも言っていない(むしろ、大いに持っていてもらいたい)。それは人気投票ではない。モラルのオリンピックでもなければ、礼拝式でもない。ものを書くのは、車を洗ったり、アイラインを引いたりするのとはちがう。あなたがこのことを真摯に受けとめられるなら、話を続けよう。でなかったら、この本を閉じて、ほかのことをしたほうがいい
たとえば、車を洗うとか。 p.142

セカンドパラグラフで畳みかける途中で「モラルのオリンピックでもなければ、礼拝式でもない。・・・」という表現を挟み込むのは普通なかなかできないです。ただくどくて説教じみた文章ではなく、エッヂの効いた文章になっていると感じます。

それだけではなく、以下のようにただ実直に書かれた文章もあります。全体の中でたまにこうしたジョークやユーモアを一切挟まない真剣な表現が入るとぐっときます。小説でなくともこのあたりの文章の緩急の感覚がすごいです。

おまえは金のために書いているのか?
答えはノーだ。現在も過去も。たしかに私は小説で金を稼いでいる。だが、金のためにと思って文字を書いたことは一度もない。友人のよしみからということはあったが、それは慣れあいであり、いちばん悪い言葉でも物々交換ということになる。私がものを書くのは自分が充たされるためである。書くことによって家のローンも払えたし、子供たちを大学へやることもできたが、それは結果でしかない。私が書くのは悦びのためだ。純粋に楽しいからだ。楽しみですることは、永遠に続けることができる。
私にとって、書くという行為はときに信仰であり、絶望に対する抵抗である。p.333 *太字は管理人

続いて文章術に関して。キングの痛烈な指摘で最も印象に残ったのは「受動態」と「副詞」についての記載です。

・・・もうひとつだけ言っておきたい。副詞はあなたの友達ではないということだ。
学校で習ったとおり、副詞というのは動詞や形容詞やほかの副詞を修飾する単語で、通常は語尾に”ly”がついている。受動態と同様、副詞は臆病な作家が好んで使う。受動態の多用が、靴墨で自分の顔に髭を描いたり、母親のハイヒールをはいてよろよろ歩いている子供のように、まわりの者からまともにとりあってもらえないのではないかという書き手の恐れを示すものだとすれば、副詞の多用は、自分の文章が明快ではなく、言いたいことがよく伝わらないのではないかという書き手の恐れを示すものといえるだろう。
たとえば”He closed the door firmly” 少なくとも動詞は能動態だし、文章自体に間違いはない。が、”firmly”はどうしても必要なのか。もちろん”He closed the door”と”He slammed the door”はとは違う。そのことに異を唱えるつもりはない。だが、問題は文脈である。ドアを閉めるという場面に到るまでに、かならず何かがあったはずだ(かならずしも情緒的なことでなくてもいい)。そのことがドアをどのように閉めたかを語っていないだろうか。それまでの文章ですでにわかっていることだとすれば、”しっかりと”は余計だ。そんなものはいくらでも削っていい。
どこかから、細かいことにこだわりすぎだ、そんな些細なことはどうでもいいじゃないか、という声が聞こえてくる。だが、それは違う。地獄への道は副詞で舗装されていると、私はビルの屋上から叫びたい。別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生のなかに一輪ぽつんと咲いていたら、かわいらしい。だが、抜かずに放っておくと、次の日、花は五つになり、その次の日には五十になり、そのまた次の日には・・・というわけで、いつのまにか芝地はタンポポでいっぱいになってしまう。タンポポが雑草だと気がついたときには、ゲッ!もう手遅れだ。 p.166-167 *太字は管理人

「地獄への道は副詞で舗装されている」なんて普通言えないですよね笑。地球を一周しても思いつかない表現で、ノックアウトされました。

下手な文章の根っこには、たいてい不安がある。p.170
・・・・・
いいものを書くためには、不安と気どりを捨てなければならない。気どりというのは、他人の目に自分の文章がどう映っているかを気にすることから始まる、それ自体が臆病者のふるまいである。 p.171 *太字は管理人

「文章は出来る限りシンプルにすべき」と、スティーブンキングが全体を通じて強調しています。これは途中自叙伝のところでスティーブンキングが何かの文学賞に応募したときに、落選してしまったのですが審査員(?)の人からの返書で「二次推敲=一時推敲 ーマイナス10%」という公式を教わったというエピソードとも関係しています。つまり文章をrefineする過程でむだを削ぎ落していくことが重要であり、それを下手に着飾るのは書き手の「不安」に根差しており、不安があるとつい副詞や受動態を纏いたくなるということです。

そして、描写においては書きこみすぎずに読者の創造にゆだねることも重要だと指摘します。

描写は作者のイマジネーションから始まり、読者のイマジネーションで終わるべきものである。描写に関するかぎり、作家は映画の制作者よりずっと恵まれている。映像はかならず余計なものまで映しだす。たとえば怪獣の背中のジッパーとか。p.232

このほかにも多くの「スティーブンキング節」がちりばめられております。書くことに興味がある方はもしよければ是非。